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导游资格考试日语导游词汇:江苏中山陵
【亚太旅游网】 时间:2011-09-04 来源:本站整理 【收藏本页

前にある城门は、中山门といいます。もともとは朝阳门と呼ばれていましたが、孙中山(孙文)を记念するため中山门と名前を改めたとのことです。この城壁は、600年前の明王朝の初めに筑かれたものです。明の初代皇帝、朱元章は南京に都を置いた後、自分の支配を固めるために20万人もの人々を使って、18年间かけてこの城壁を筑き上げました。周囲の长さは33.6キロメートルです。

现在の城壁は、半分が当时のまま保存されています。南京城は、いま世界に残されている古いお城の中で最大のものです。

この辺りは东郊风地区といいます。南京の东の郊外の名所地です。この辺りにはいろいろな木がたくさん植えられていますが、特にプラタナスの并木はとてもきれいです。夏の暑い日にはこの辺りを散策するととても凉しいです。

もうすぐ中山陵に到着しますが、中山陵について少しご绍介させていただきます。

中山陵は、わが国の伟大な革命先駆者、孙中山(孙文)先生のご陵墓です。孙中山先生のことについてはみなさんもよくご存知かもしれませんが、简単にご绍介させていただきます。

孙中山先生の名は「文」、字を「逸仙」といいます。日本では「孙文」という名前のほうがよく知られていると思います。

孙文先生は1866年11月12日、広东省香山県の农家に生まれ、(现在この県は孙中山先生の名にちなんで中山県と改名されています。)1925年3月12日、病のためこの世を去っています。享年59歳でした。そして孙文先生の生前の愿いに従って、1929年6月1日にここ南京に葬られました。

孙文先生は40年もの长い时间を中华民族の振兴のために尽くされました。ところで先生の出身地も、亡くなった场所も南京ではないのにどうして南京に葬られたと思いますか?

1911年、辛亥革命が成功した後、孙文先生は南京に中华民国临时政府をつくって、临时大统领に就任されました。とても多忙でしたが、时々休みを取ってこの紫金山へ猟に出かけていました。先生はこの辺りの自然や景色の素晴らしさをとても気に入ったようで、付き添いの人に冗谈半分で「自分が死んだら、ぜひこの辺りに墓を造ってほしい」と言ったそうです。冗谈ではありますが、先生の愿いでもあると察した国民党政府は、先生が亡くなった後、1926年から1929年まで3年间かけて陵墓を造りました。この工事の设计者は、中国の名高い建筑士?吕彦直(ろえんちょく)さんです。敷地面积は8万平方メートルあります。

陵墓は警钟のような形をしていますが、これは民衆に対し目を覚まし、奋い立つよう呼びかける钟を表现しており、孙文先生が一生涯をかけて奋闘された実绩を象徴しているかのようです。

この陵墓は、広场、鸟居、参道、正门、碑亭、祭殿、墓室からなっています。一番高い所は祭坛で、海抜は158メートル、标高は73.3メートルあります。この入り口から祭坛までの石段はかなり长いですが、石段は平らですし、ひとつの石段の高さも低いですので登りやすいかと思います。

みなさんの南侧には、孙文先生の铜像が立っています。これは孙文先生と仲の良い友达であった梅屋庄吉という日本人が日本で鋳造して运んできたもので、先生が演説を行うときの姿をもとに作りました。

鸟居は石造りで、その上に「博爱」という文字がありますが、これは封建専制主义に反対するという意味で、孙文先生の民主主义思想を表しています。

鸟居の後ろの参道は、长さが480メートル、幅70メートルです。両侧にはヒマラヤ松が植えられています。これは孙文先生の革命精神と高尚な品性がこの常緑树のようにいつまでも続くということ表しています。

香炉の上には三つの文字が鋳造してあります。智恵の「智」、仁爱の「仁」、勇敢の「勇」の三つです。これは孙文先生の优れた品行と才能を称えたものです。向こうは正门です。正门の真上に「天下为公(天下は公のため)」という四文字が刻まれていますが、これは孙文先生の直笔です。

前は碑亭です。石碑の高さは9メートルです。上には孙文先生が葬られた年月日が刻まれています。

前の建物は祭殿です。门の上には「民族、民生、民権」という有名な「三民主义」の文字が书かれています。「三民主义」とは、孙文先生が提唱された「民族の独立、平等を求める、民主自由を実现する、人民の生活を改善する」という纲领で、孙文先生が革命を指导する上で中核的な思想となったものです。この祭殿は全部石で作られています。先生の座像は大理石で作られ、高さは5メートルあります。フランスのある有名な雕刻家がパリで雕刻して运んできたものです。座像の土台の周りには孙文先生の革命活动を物语った浮き雕りがなされています。

真正面の図は、孙文先生が赤ちゃんの诊察をしているものです。これは孙文先生が香港の医科大学を卒业してから医者になったときの様子を描いています。东のほうに二つの図があります。左は孙文先生が革命を宣伝する志を立て、出国する前に友达と别れるときの情景を描いています。右は孙文先生が日本で革命同士と共に「同盟会」の纲领を検讨している様子を描いています。

続いてこの図は1911年、辛亥革命が成功した後、1912年1月1日南京で中华民国临时政府がつくられ、孙文先生が临时大统领に选ばれ、国会から先生に大统领の官印を授与する様子です。

こちらにも二つの図があります。左の図は、孙文先生が人民を呼び起こすため、演説を行っている様子です。

右の図も孙文先生が演説をしている様子を描いています。これは中华民国临时政府がつくられてまもなく、袁世凯がその革命の成果を夺って大统领になり、さらに皇帝になろうと企てたことがありましたが、孙文先生がこの阴谋に反対する演説を行った时の様子を描いています。

袁世凯の皇帝になるという梦は、孙文先生をはじめとする全国人民の反対のもと、わずか83日间で终わりました。

この祭坛の両侧の壁に、孙文先生が书かれた建国纲领が刻まれています。祭坛の後ろは墓室です。この孙文先生の卧像は大理石で雕刻されたものです。その下は地下室で、先生の遗体が安置されています。

 

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